古典派シンフォニー

百花繚乱

 

アントン・エーベルル

Anton Eberl 1765-1807


 モーツァルトの精神を受け継ぎつつ自ら時代を切り開きロマン派を見据えるような作品をこの没年で書いたエーベルルは、ウィーン古典派の作曲家の中でも特別に重要な作曲家といえるでしょう。

 モーツァルトとエーベルルに親交があったのは間違いないようで、エーベルルはかなりこの先輩の音楽にのめり込んでいたようです。モーツァルトからの影響は自ずとエーベルルの音楽から滲み出ています。エーベルルの幾つかのピアノ曲が繰り返しモーツァルトの名の下に出版され、本人はそれを訂正するために苦労することにもなるのですが、逆に言えば、それだけ(特に初期の)エーベルルの作品はモーツァルトを思わせるところがあったということ。時代を経た1944年にもエーベルルのハ長調のシンフォニーが、モーツァルトの新発見のシンフォニーとしてミラノで発表されたりしているのですから、確かに両者の共通点は多いのでしょう。ちなみに、このシンフォニーの自筆スコアには、モーツァルトの筆跡による校正が含まれているとのことです。

 エーベルルはオーストリア帝国官吏の父親の元ウィーンに生まれ、子供の頃からピアニストとして神童的な才能を表し、作曲家としても若いうちから舞台作品をつくるなどして、ただのピアノのヴィルトゥオーゾにとどまらない総合的な作曲家になろうという意欲をもっていました。

 モーツァルト没後の1795年から翌年にかけては、モーツァルトの夫人コンスタンツェと、その姉アロイジア・ランゲを伴いドイツ各地を演奏旅行し、その後1796〜99年と1801〜02年にはサンクトペテルブルクに滞在。ピアニスト、ピアノ教師、ロシア王室の娯楽係、楽長などを務めました。 

 ロシアでの活躍の後ウィーンに戻ると、オペラをもって楽壇に打って出ます。また、ピアノソナタ、室内楽、シンフォニーなどの器楽作品は批評家から絶賛をもって受け入れられます。変ホ長調のシンフォニー 作品33は、1805年にベートーヴェンの第3番〈英雄〉の初演と同時にロプコヴィッツ邸内で演奏され(両作品ともロプコヴィッツ公爵に献呈されています)、その時は、エーベルルのシンフォニーの方が高い評価を得るに至ります。

 ピアノ協奏曲 作品32と作品40、ニ短調のシンフォニー 作品34や、死の直後に出版されたト短調のピアノソナタ 作品39は、ロマン派を先取りするような形式や和声をまとっていて、独自の境地を開拓しようというエーベルルの意欲が垣間見られます。シューベルトとはまた異なった道を開拓してゆくような、興味深い作品たちが次々と生み出されていたのですが、その矢先、突如41歳でその高度な芸術の峰への登頂を阻まれてしまいます。各紙追悼文はどれもエーベルルの作品とそして人柄について最上級の言葉で称賛するものばかりだったということです。

【A.エーベルルの肖像画】


[アントン・エーベルルのシンフォニーを聴く]

シンフォニー ハ長調 w.o.n.7  [1785]


 上に述べた20世紀半ばに資料同士の錯綜からモーツァルトの新発見のシンフォニーとして発表されたこの作品は、現在ではエーベルルの自筆総譜が見つかったため彼の真作と確定しています。

 確かに今の私たちが聴いても、モーツァルトのシンフォニーと見間違えてしまうような類似性に溢れた作品です。ハフナー・シンフォニー KV385を思わせるのは冒頭部分だけではありません。大胆な跳躍音型、リズミックな律動、弦楽器の活気ある刻みや音階。ファゴットやフルートの活躍。1785年に書かれたこのシンフォニーは、やはりモーツァルトのハフナー・シンフォニー[1782]から具体的なアイデアを得て作曲されたのでしょうか。アンダンテ・グラツィオーソの第2楽章は優しく品のある、しかしながらステップを踏むことのできる舞曲。第3楽章はまさにウィーンのシンフォニーのフィナーレ。くすぐるような人懐っこい旋律はピアノで始まりウィットに富む活気あるお喋りが繰り返され、終始ご機嫌に曲が閉じられます。
 エーベルルの作品は、他にも傑作ピアノ協奏曲やピアノ三重奏曲、五重奏曲、管楽器を含むピアノ六重奏曲、クラリネットとチェロとピアノのための三重奏曲、そしてピアノ作品の数々にCD録音があります。モーツァルトの室内楽作品に飽き足らなくなったという方、次にはエーベルルの器楽曲を聴いてみてはいかがでしょうか。

(2015.4.18)


【関連動画】

アントン・エーベルル:シンフォニー ハ長調 w.o.n.7 [1785]

コンチェルト・ケルン、ヴェルナー・エアハルト(指揮)☆