古典派シンフォニー

百花繚乱

 

カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ

Carl Philipp Emanuel Bach 1714-1788


 ヨハン・セバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach)の音楽家になった内の二番目の息子、カール・フィリップ・エマヌエルは、父親が極めたバロック音楽の語法(通奏低音や対位法)を中心に据えつつも新しい時代を自ら切り開く創造力もたくましく、バロックから古典派へと移り変わる時代に独自のスタイルを打ち立てました。

 主観的な感情の移り変わりを音に表現しようという〈多感様式〉は、C.Ph.E.バッハを中心とする北ドイツの音楽家により極められたスタイルですが、若きハイドンがこの表現手段に魅せられ感化されたこともあり、ヨーロッパ中に影響が及び行きます。上辺のみの煌びやかなスタイルに対抗する意味合いもあった〈多感様式〉の確立により、その後の古典派音楽に深みが加わることになりました。

 他の兄弟と区別するために「ベルリンのバッハ」もしくは「ハンブルクのバッハ」と呼ばれる通り、前半生をベルリン・ポツダムのフルードリヒⅡ世の宮廷の廷臣として、後半生には自由ハンザ都市として繁栄を謳歌していたハンブルクで、カントルと五大教会の音楽監督になり、また出版活動などを通して自由な芸術家として活躍しました。

 プロイセンの強大化に努め、軍事的才覚を合わせもつ啓蒙君主として、大王と尊称されたフリードリヒⅡ世は、芸術と学問を愛し、就任後間もなく離宮サン・スーシを建造、そこでは夜ごと大王のフルート演奏を交えた室内楽コンサートが催されていました。フリードリヒは各地から優秀な作曲家を集め、時のポツダムは一流派をなす音楽文化が形成されるに至ります。

 グラウン兄弟、ベンダ兄弟、そしてJ.J.クヴァンツなど有力な音楽家がひしめく中、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハは伴奏者として雇われ、大王の気まぐれなフルート演奏の伴奏をすることを第一の仕事に、作曲者、編曲者として30年近く奉職。しかし、その才能を活かすべく十全な役職は結局与えられず、給与面でも冷遇されていました。さらに大王は、七年戦争(1756~63年)を展開する中で、次第に音楽に興味を失って行ったのです。とはいってもサン・スーシー宮殿では、大王向け作品の作曲活動の他に芸術家としての独自の道を模索する時間がありましたし、さらにこの啓蒙君主の元には、ヴォルテール(Voltaire)などの知識人も招かれていましたので、高度な芸術的空気が溢れていたことに間違いはなく、そこでの生活には多くの得がたい経験があったはずです。そうした中、1753年に著書〈正しいクラヴィーア奏法への試論〉を発表します。運指法、装飾法、和声法、通奏低音奏法などの実際的な面から美学論にまで言及されているこの本は、後のベートーヴェンにも弟子の指導教材として用いられるほどバイブル的書物になりました。(我が国でも版を絶やすことなく出版され続けています。)

 ポツダム脱出を企てること2度3度、ついに54歳で新しい地位を得ることに成功します。ハンブルクで1721年より街の音楽監督として君臨していた、C.Ph.E.バッハ自身の名付け親でもあったテレマン(Georg Philipp Telemann)が亡くなったのです。大いに注目されたこのポストを射止めることに成功しました。ポツダムの宮仕えから解放され晴れてハンブルクへ。そこでは、教会における年間200回もの演奏会、市の行事のために求められる音楽など、たくさんの公式の作曲活動に加え、自主演奏会シリーズ、自作の出版事業でも成功を収め名声が大いに高まります。ちなみに18世紀後半にバッハと言えば、こちらの大バッハの息子を指すのが一般的でした。

 ハンブルクで出版された〈識者と愛好家のためのクラヴィーア曲〉シリーズは、形の上では市民向けを装っていますが、前任者テレマンとはひと味異なり、自分と共に歩める音楽の通人を探し求める彼の態度が現れた玄人向けの曲集になっています。

 〈多感様式〉と呼ばれる彼の音楽は、まさに一所にとどまらない心の動きを音楽に現した様式で、激しい跳躍、思いがけない転調、突然の休止で息を止めたかと思うと、奔流の中に聴くものを投げ込むようにめまぐるしく転回してゆきます。といっても劇場的な大げさなパフォーマンスではなく、あくまで心の機微を表現するためにある手法。あえて言えば、心の隅を顕微鏡で拡大し襞までを描こうとするかのよう。室内楽作品には切々と語りかけるような、みごとな侘び寂びの世界があり、彼がクラヴィコードを弾きながら下唇をたらし、涙を流していたという感じる心が表現されています。

 C.Ph.E.バッハはポツダム時代に9曲、ハンブルク時代に10曲のシンフォニーを作曲したと言われています。シンフォニア集 Wq.182は6曲セットで弦楽合奏のためのもの。この曲集は、後々ウィーンでモーツァルトにバッハ父子の作品を紹介したり、最晩年のハイドンにオラトリオ〈天地創造〉と〈四季〉の台本を提供したりと活躍する、ファン・スヴィーテン男爵の依頼に基づき書かれたもので、独創的な楽想が大胆な和声進行を伴いつつ多様に変化してゆく破天荒な作品集になっています。もうひとつのシンフォニア集 Wq.183は、管弦楽のために書かれました。次のコーナーでその第1番を聴きましょう。

【C.Ph.E.バッハの肖像画】

【サン・スーシー宮殿(無憂宮)】


[カール・フィリップ・エマヌエル・バッハのシンフォニーを聴く]

12のオブリガート声部による管弦楽シンフォニア 第1番 ニ長調 Wq.183


 ハンブルクで1775~76年に作曲され80年に出版された、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの自信作。わざわざ曲名には12の楽器によることが明記されています。それらはホルン2、フルート2、オーボエ2、ヴァイオリン2、ヴィオラ・ダ・ブラッチョ(肩)2、ファゴット、チェンバロ、コントラバスという内訳です。彼のシンフォニアは常に急-緩-急からなる3楽章形式で、楽章間にはブリッジ的な部分が挿入され、休みなく奏されるように書かれているパターンが多く見られます。第1楽章の形式を見てみると典型的なソナタ形式というよりも、バロック時代のリトルネロ風の要素が色濃く、彼の新しくも守旧的な面が見られるます。

 この曲はその4つ組のシンフォニアの第1番。訝しげな出だし、ショッキングな転調とダイナミクスの激しい交換、幅広い音域を幾度も行き来する弦楽器、奇をてらった効果満載の第1楽章。続く第2楽章は、ヴィオラソロと2本のフルートがユニゾンでピッチカートの伴奏の上をゆるりと歌うユニークな世界。第3楽章では各楽器が目まぐるしく動き回り、聴衆の興味を最後まで一瞬たりともそらせません。

(2015.4.29)


〔シー・ピー・イー・バッハと呼ばないで!〕

 J.S.バッハの4人の息子たちはバロック〜古典期に活躍したいずれも重要な作曲家です。私たち古典派愛好家の中の会話では「バッハ」と言うだけでは誰のことを指しているのか分かりませんので、区別して呼ぶ必要があります。ところが専門家筋の間でもよく聞かれるのが「カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(Carl Philipp Emanuel Bach)」のことを「シー・ピー・イー・バッハ」とイニシャルで呼ぶことです。しかし実はこれはかなり身の毛のよだつ響き。英語の発音でイニシャルで呼ばれた彼もかなり居心地が悪いはずです。「ジェイ・エス・バッハ」というのも同様、かなりの違和感があります。なぜならば、決して「ジェイ」ではないからです。現代のアメリカ人同士ならばきっと「ジェイ・エス・バック」と呼ぶこともあるでしょう。ですがバッハはドイツ人なのでイニシャルで呼ぶならば「ヨット・エス・バッハ」が正しいのです。でもこのようにイニシャルで呼ぶのはやはりおかしいですし洒落てもいません。 Carl Philipp Emanuel Bachの場合は、「ツェー・ペー・エー・バッハ」となってしまいます。

 ならば、Carl Philipp Emanuel Bachをどのように呼べば良いのか。日本人同士だと「エマヌエル・バッハ」が最も通りが良いようです。エマヌエルという名前は彼にしか付いていませんから。しかし頻繁に会話の中に出てくる彼らの名前ですから、ここはひとつ親しみを込めてファーストネーム(フォアナーメ)のみで呼び合うことを提唱したいと思います。

 フランスのファーストネーム(プレノン)には、Jean-Luc「ジャン-リュック」とかJean-Pierre「ジャン-ピエール」などの複合名(prénom composé)があります。これがカッコイイ!ひとつ彼らの流儀を見習ってバッハ家のみなさまの呼び名をつくってみましょう。勝手な提案

ヨハン・セバスティアン(Johann Sebastian Bach)
ヴィルヘルム・フリーデマン(Wilhelm Friedemann Bach)
カール・フィリップ(Carl Philipp Emanuel Bach)
クリストフ・フリードリヒ(Johann Christoph Friedrich Bach)
ヨハン・クリスティアン(Johann Christian Bach)
 ちなみに他に、オルガニストの道を歩み始めて早々の24歳で急死したJohann Gottfried Bernhardt、知能の発達の遅れがあったGottfried Heinrichという男子がバッハ家では成人しています。
 生前、彼らは家庭内でどのように呼び合っていたのでしょうか。一応ダブることのない名前(青字)が工夫されて入っているので、その名で呼び合っていたのでしょうか。あるいは愛称があったのでしょうか。「ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ」は「フリーデ(Friede)」と呼ばれていたそうです!それともはっきり区別する必要があった時にはこの複合名が意外と使われていたのかもしれません。いずれにせよ我々も他人行儀にイニシャルなどでは呼ばずに、彼らが生活の中で普通に呼び合っていた洗礼名・ファーストネームで呼びかけることにしませんか?
 ロンドンで活躍した末息子を、Mr. John Bach(ジョン・バック氏)なんて呼ぶのもまた一興というものです!

【関連動画】
C.Ph.E.バッハ:12のオブリガート声部による管弦楽シンフォニア 第1番 ニ長調 Wq.183
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