古典派シンフォニー

百花繚乱

 

ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハ

Johann Christoph Friedrich Bach 1732-1795


 J.S.バッハの息子のうち優れた音楽家になった4人の内の3番目の子で、母親はヨハン・クリスティアン・バッハと同じアンナ・マグダレーナ。

 クリストフ・フリードリヒ・バッハは父親の亡くなる年に経済的理由もあり学業を放棄し、ビュッケブルクのシャウムブルク-リッペ伯ヴィルヘルムの宮廷音楽家の地位につきました。就任当初のビュッケブルクは、楽士長や作曲家をイタリア人に牛耳られていて、クリストフ・フリードリヒは「室内楽奏者」という肩書きで通奏低音やヴァイオリニストの役を与えられただけでしたが、次第に確実に宮廷内の地位を上げて行き、1759年には宮廷楽士長の地位を得るまでに至ります。

 1771年にはヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(Johann Gottfried von Herder)がビュッケブルクに赴任してきて、この大詩人とともにオラトリオやカンタータ、また楽譜は消失してしまいましたが劇作品がつくられました。ヘルダーはわずか5年の滞在期間でワイマールへ向け去って行きますが、彼との共同作業はクリストフ・フリードリヒに多くのものをもたらし、彼の芸術にさらなる豊かさが加わることとなりました。

 ビュッケブルクは小さな宮廷でしたが、啓蒙君主として人々に慕われていたヴィルヘルム伯、そして彼が亡くなった後を継いだフィリップ・エルンスト公、さらにその夫亡き後、息子の摂生の地位にあったユリアーネ妃とも芸術を愛し、文化の香り高い宮廷として知られていました。主君が替わる度に楽団の解散や再編が繰り返された当時にありながら、クリストフ・フリードリヒは、45年という長い期間にわたってひとつの宮廷に勤め通すことができたのです。特に後年仕えていたユリアーネ夫人はクリストフ・フリードリヒの才能を理解する傑出したピアニストでもありました。最期まで恵まれた環境下で活動を全うすることができた幸せな芸術家ということができるでしょう。

 クリストフ・フリードリヒには、ヴィルヘルム・フリードリヒ・エルンスト・バッハ(Wilhelm Friedrich Ernst Bach)という息子がいましたが、1778年にその子を大きな新しい環境に置かせようと、弟ヨハン・クリスティアン・バッハ(Johann Christian Bach)の住むロンドンへ共に赴きます。そこで弟の主宰する〈バッハ-アーベル・コンサート〉を聴いたり、オペラを観たりして、ロンドンでの数週間の滞在は父親にとっても目を開かされる体験になりました。クリスティアン・バッハに紹介されてか、この時にモーツァルトの賛美者になっています。バッハ家直属の最後の音楽家となった彼の息子は、クリスティアン・バッハの元に預けられ、父親と一緒にビュッケブルクには戻りませんでした。このヴィルヘルム・フリードリヒ・エルンスト・バッハも後の1780年代に2曲のシンフォニーをしたためています。

【J.Ch.Fr.バッハの肖像画】

【ビュッケブルク城】


[ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハのシンフォニーを聴く]

10声のシンフォニー 変ロ長調 BR C 28/WfⅠ/20 [1794年]


 亡くなる前年の8月に書かれたシンフォニーで、これがクリストフ・フリードリヒ・バッハの書いた最後の作品です。1793年にボヘミアの作曲家、F.C.ノイバウアーがビュッケブルクの宮廷に現れ、彼から刺激を受けたのか、大変意欲的な作品になっています。

 オーケストラは通奏低音に支えられ、兄であるカール・フィリップ・エマヌエル・バッハの書法を感じさせるものがあります。フルートとクラリネット、ファゴット、ホルンが華やかに活躍。緩徐楽章も第3楽章のトリオ部もセレナードのように木管楽器がよく歌います。終楽章は陽気なコントルダンス。高潔で親切で礼儀正しかったという人物評通りの暖かく気持ちのよい作品です。

(2015.1.28)


【関連動画】

J.Ch.Fr.バッハ:シンフォニー 変ロ長調 より第1,2楽章

ライプツィヒ室内オーケストラ、M.シュルト・ヤンセン(指揮)