古典派シンフォニー

百花繚乱

 

ユーハン・ユーアキム・アグレル

Johan Joachim Agrell 1701-1765


 スウェーデンはストックホルムの南西方向にあるオステルヨートランド地方に生まれ、北欧最古の由緒あるウプサラ大学に人間科学を勉強するために入学したアグレルは、ここで精力的に演奏会を開き活躍していたブルマン(Eric Burman 1692-1729)と出会い、音楽の才能を開花させます。

 ブルマンのサークルでアグレルは、1721年にイギリスでの留学を終えて帰ってきたバロック期のスウェーデンを代表する作曲家、ルーマン(Johan Helmich Roman 1694-1758)に出会い、彼自身から、また彼を通じてペープシュ(Johann Christoph Pepusch 1667-1752)やヘンデル(Georg Friedrich Händel 1685-1759)らの音楽に触れ学ぶことができたと推測されています。大学を修了する頃には、ドイツとイタリアのスタイルをものにした「国際的な音楽家」として紹介されるに至ります。

 アグレルがウプサラ大学で勉学を始めた頃、スウェーデンは、ヘッセン家出身のフレドリク1世による治世になり、以前のような対外的な国力は著しく落ちたものの、国内は安定し「自由の時代」と呼ばれる文化面での成熟期を迎えていました。

 ヘッセン家の本拠地であった現ドイツのカッセルから、王の弟で音楽好きのマクシミリアンが、王の使いとして1723年にスウェーデンを訪れました。ウプサラ大学での音楽の活況を耳にしたマクシミリアンは、わざわざそこに立ち寄り、アグレルのヴァイオリンを聴き、その才能に惚れ込み、真新しく建造されたカッセルのイエスベルクの城に彼を招き入れます。

 そこには67人もの音楽家が雇われていて、自由に使える豊富な楽器のコレクション、またマクシミリアンに劣らず音楽好きの王女フレデリク・シャルロッテの元、音楽ばかりでなく絵画や造園などの文化が花開こうとしていました。そこでアグレルは23年の長きにわたり暮らしてゆくことになります。若かりしころのアグレルは、1725年にパルマからカッセルに招かれたケッレーリ宮廷団長(Fortunato Chelleri 1690-1757)の影響下から、イタリア様式の感じやすくも快活な作品を生み出しています。

 カッセル期のアグレルの最大のトピックは、1738年1月7日にアムステルダムの劇場で、彼のシンフォニー変ホ長調がヴィヴァルディ(Antonio Vivaldi 1678-1741)の指揮により演奏されたことではないでしょうか。この作品は確かにいかにもヴィヴァルディの関心を惹くようなスタイルで書かれていて、スウェーデンに生れながら、南の音楽にここまで同化しているアグレルの柔軟性に驚かされるものです。

 カッセルでの幸せな日々はしかし、この宮廷の借金が増えたことにより楽団員が解雇され終わりを迎えます。アグレルは、雇い主のマクシミリアンとその家族に最後まで感謝の意を表し愛情をもちつつも、1746年にニュルンベルクの楽長の地位を得ることに成功し、新しい地での生活の一歩を踏み出します。

 ニュルンベルクでのアグレルの仕事は、音楽監督、祝賀行事のための音楽の作曲、教会での指揮活動など多岐にわたりました。このころのアグレルの性格について、「ドイツ語は流暢に話せず、恥ずかし屋」と町の年代記に記されています。

 48歳にして歌手のマルガレータ・フェルチュ(Margaretha Förtsch)と結婚して私生活での幸福を手に入れたかにみえましたが、第一子出産のおりに妻を亡くしています。

 その後アグレルは、ニュルンベルクで仮面舞踏会を取り仕切り、オペラをプロデュースするなどの活躍を見せ、この町の音楽文化の発展に寄与しました。

 アグレルの作品は、主にカッセルに出てきて以降のものが知られています。ルーマンやケッレーリからの影響を思わせるイタリアのバロックスタイルに軸足が置かれていますが、初期のマンハイム楽派の音楽や、ギャラント様式など新しい音楽を積極的に吸収してゆこうという気性をそこここに聴くことができます。

【J.J.アグレルの肖像画】


[ユーハン・ユーアキム・アグレルのシンフォニーを聴く]

弦楽器と2本のフルート、通奏低音のためのシンフォニア イ長調


 楽譜屋や楽器メーカーが集まっていたニュルンベルク。中でもデンナー家は、木管楽器の優れたメーカーとしてその名が知られていました。

 J.Ch.デンナー(Johann Christoph Denner 1655-1707)は、自身も優れた管楽器の演奏家で、製作家としてはフルートを三分割にして、一鍵のバロックフルートを楽器として完成させるなどの功績を残しています。またクラリネットの発明者としても知られています。ちなみにクラリネットという語は、1710年にニュルンベルクの古文書に初めて現れるのだそうです。

 その息子のJ.デンナー(Jakob Denner 1681-1735)は、J.S.バッハやG.Ph.テレマンにリコーダーの極限の表現力を知らしめたと言われている名匠です。

 ヤーコプの弟のJ.D.デンナー(Johann David Denner 1691-?)のマークの印された楽器は残っていませんが、アグレルが彼の工房から真新しいフルート(横笛)を2本買い求めた足跡が残されているとのこと。

 フルート・コンチェルトや、フルートとチェンバロをソロに仕立てたコンチェルトなど、この楽器のための作品を好んでアグレルが作曲している背景には、デンナーの優れた楽器からの刺激があったのかもしれません。

 このニュルンベルクで書かれたシンフォニーにも、管楽器を代表してフルートだけが2本参加しています。

 第1楽章冒頭はリズミカルなバスの上で、放たれたようなフルートのトリルが印象的。構成は、J.シュターミッツに代表される初期マンハイム楽派を思わせるものになっています。動機間に関連をもたせつつも4〜8小節単位に新しいモティーフが次々に登場してゆきます。前半部分を少し展開しながら再現する後半部分が続きます。

 第2楽章は弦楽器に弱音器がつけられ、シンプルな2つの主題+終結部を後半部分でもほぼ繰り返すセレナードのような穏やかな歌の楽章です。

 第3楽章はエレガントなメヌエット。中間部のトリオは文字通り2本のフルートとバス(ファゴット)によるトリオになっています。

 第4楽章は8分の6拍子のプレストで、ここでは短調域に行く間もなく、快速に曲を締めくくります。

 まだ盛期バロックの時代が明け切らない時代にあって、通奏低音を使いながらも、明るくギャラントな作風を求めたアグレルの作品は、この狭間の時代に見つけた鉱物のような輝きを放っています。

 北欧の合奏団によるアグレルの復権は近年著しく、気持ちのよい演奏がスピーカー越しに聴けるようになってきています。

【J.デンナーのフルート】

(2016.4.6)


【関連動画】

J.J.アグレル:弦楽器と2本のフルート、通奏低音のためのシンフォニア イ長調

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