古典派シンフォニー

百花繚乱

 

ミヒャエル・ハイドン

Joseph Michael Haydn 1737-1806


 ヨーゼフ・ハイドンを兄にもつミヒャエルがどれほどのシンフォニーを書いていたかとても興味深いところですが、ミヒャエル・ハイドンの研究家、チャールズ・シャーマンによると、全150曲ほどの器楽曲の内41曲のシンフォニーが知られているとのことです。

 兄同様少年期に家を出てウィーンの聖シュテファン大聖堂の少年聖歌隊から音楽家人生を始めたミヒャエル。

 1762年にはザルツブルクに居を構え、翌年には芸術を愛するシュラッテンバッハ大司教のもと宮廷音楽家ならびにコンツェルトマイスターに任命されています。

 お気づきの通り、早熟のモーツァルトが音楽家としての活動を始めた頃にザルツブルクに定職を得たハイドン。父レオポルトの同僚でもあったわけですが、モーツァルト家の手紙のやり取りにハイドンが登場することはあまりありません。私的な交流もそれほどなかったようです。それでもこの小さな街の音楽家同士、様々な場面で交わりが持たれました。モーツァルトのKV35として知られる、宗教的ジングシュピール「第一戒律の責務」ですが、モーツァルトが書いたのは第1部のみで、第2部をこのミヒャエル・ハイドン、第3部がアードルガッサーという3人の作曲家による合作になっています。

 こちらも有名な逸話ですが、1783年夏に妻のお披露目を込めてウィーンからザルツブルクに帰郷したモーツァルトの元、ハイドンからSOSが入ります。大司教(この頃はコロレド大司教)から依頼された6曲セットのヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲を4曲書いたところで病気になって書けなくなったというハイドンに代わって2曲を作曲したのです。KV423ト長調とKV424変ロ長調という2曲の名作デュオが、私たちにも残されることになりました。

 実はモーツァルトの方もハイドンに助けられたことがあります。モーツァルトのシンフォニー第37番はご存知でしょうか。36番は「リンツ」、38番は「プラハ」と思いつく方も37番はとんと存じ上げないと改めて不思議に思われるでしょう。20世紀初頭までKV444としてモーツァルトの作品と思われ、37番に位置していた作品は、実はミヒャエル・ハイドンの作品であることが判明しました。加えられた序奏のみがモーツァルトの筆によるものだったのです。恐らく急場をしのぐためにモーツァルトがハイドンの作品を拝借して演奏したのでしょう。

 ミヒャエル・ハイドンはこの他にもモーツァルトと同じ楽器編成による弦楽五重奏曲やディヴェルティメントなど、ザルツブルクならではの器楽作品の傑作を残していますが、自身の職務に忠実であったという理由も大きいかと思います。宗教作品に抜きん出た才能を現していて、この分野に傑作が多く残されています。少年時代3オクターブに渡る美声をきかせたハイドンは歌へのこだわりがありました。アマチュア用の娯楽音楽の男声用パートソングなど、かなり聴き応え、よりも歌い応えでしょうか?のある作品も残しています。

【M.ハイドンの肖像画】【ザルツブルクの街並み】


[ミヒャエル・ハイドンのシンフォニーを聴く]

シンフォニー ニ長調 P.43


 活力と若さ溢れる第1楽章と第2楽章のセレナードのような密やかさ。モーツァルト青年期のミラノで書かれた一連の四重奏曲のような親密な愛らしさをもつシンフォニー。ですが、ここでは最終楽章に注目してみましょう。モーツァルトの最後のシンフォニー「ジュピター」KV551の源泉を見るようです。なんと充実したフーガでしょう。よく言われる、両者のレクイエムの近似性もそうですが。このような宗教音楽の伝統に根ざしたミヒャエル・ハイドンのフーガの扱いは空気のようにモーツァルトの中に伝わっていたのでしょう。この楽章を聴くと、意外とウィーンでモーツァルトがJ.S.バッハの音楽に出会った経験以上のものをミヒャエル・ハイドンはモーツァルトにもたらしていたのではないか、なんていう想像を膨らませてしまいます。

(2015.1.28)


【関連動画】

M.ハイドン:シンフォニー ニ長調 Perger43, MH287

ボーンマス・シンフォニエッタ、H.ファルバーマン(指揮)